気分転換に映画『英国王のスピーチ』を見返していた。
吃音に悩む英国王ジョージ六世が、言語療法士の助けを借りながら国民へのラジオ演説に挑む物語である。
久しぶりに見ていて印象に残ったのは、王と療法士のやり取りだった。
療法士は緊張を和らげようとして、
「王の椅子など、ただの椅子だ」
という。
すると王は、
「これは歴代の王が使ってきた由緒ある椅子だ」
と真面目に返す。
足を置く石に対しても同じだった。
療法士は単なる置物のように扱うが、王は歴史ある由緒正しい品だと譲らない。
この場面が妙に可笑しかった。
しかし考えてみると、この感覚こそが英国という国の特徴なのかもしれない。
イギリスには王室があり、爵位があり、ナイトの称号がある。
日本人からすると、
「そこまで昔のものにこだわる必要があるのだろうか」
と思うこともある。
ところが彼らにとっては、古い制度や道具は単なる骨董品ではない。
歴史そのものなのである。
だから王の椅子はただの椅子ではない。
そこには積み重ねられた時間が存在している。
ところが面白いのは、イギリス人が伝統を絶対視しているわけではないことだ。
映画『キングスマン』では、英国紳士の象徴ともいえるスーツ姿の情報員たちが荒唐無稽なアクションを繰り広げる。
ガイ・リッチー監督作品では、高級な英国スーツ生地を使ったジャージのような服装まで登場する。
格式を重んじる一方で、その格式を自分たちで茶化してしまう。
真面目なのか不真面目なのか分からない。
しかし、この「守りながら崩す」という感覚こそが英国文化の面白さなのだろう。
そんなことを考えているうちに思い出したのが、伊丹十三さんの英国車に関するエピソードだった。
英国車を購入しようとした際、販売員は車の長所だけでなく欠点まで説明したという。
「ここは優れているが、こういう使いづらい面もある」
という具合だったらしい。
普通なら欠点は隠したくなる。
しかし、その率直さに伊丹十三さんはむしろ好感を抱いた。
車も人間と同じで、長所だけでできているわけではない。
欠点があって当然だという考え方だった。
考えてみれば、『英国王のスピーチ』の主人公も同じである。
ジョージ六世は理想的な王ではなかった。
吃音という大きな弱点を抱えていた。
しかし映画は、その欠点を完全に克服して英雄になる話ではない。
弱点を抱えたまま、自分の役割を果たそうとする物語である。
そこに多くの人が共感するのだろう。
日本では完成度の高さが評価されることが多い。
欠点を減らし、違和感をなくし、より良いものを目指していく。
一方でイギリスには、
「欠点も含めて、その人らしさ、その物らしさである」
という価値観がどこかに残っているように見える。
王室もそうだ。
英国車もそうだ。
スーツ文化も音楽もそうかもしれない。
完璧だから価値があるのではない。
歴史や癖や不完全さを抱えながら存在し続けていることに価値を見出している。
『英国王のスピーチ』を見返していて、そんな英国らしさについて改めて考えさせられた。
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