上等な料理に蜂蜜をかけるが如く。猫の食卓にも譲れない美学がある

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さとのか4Kで『イッツァ麺ワールド』を流し見していた。

この日は長崎ちゃんぽんの話題だった。

豚骨ベースのスープに、野菜や肉、魚介類などを合わせた長崎ちゃんぽん。『孤独のグルメ』では、専用のウスターソースをかけて食べる場面もあったように記憶している。

長崎には皿うどんにも太麺と細麺があり、私が知っていたパリパリの揚げ麺だけが、あの土地の皿うどんではないらしい。

一方、愛媛県の八幡浜ちゃんぽんは醤油ベースのスープが特徴だ。唐灰汁を使った独特の麺というより、市販の中華麺でも親しまれている庶民的な料理である。

同じちゃんぽんという名前でも、土地が変わればスープも麺も変わる。料理というものは、なかなか奥が深い。

などと、麺の話をしていたはずなのだが、我が家の食卓に目を向けると、こちらにもなかなか面倒な食文化が存在している。

カリカリとチュールは別物である

我が家には九匹の猫がいる。

先ほども、カリカリを食べた月丸が、どこか不服そうな顔をして降りて行った。

食事は済ませたはずなのだが、どうにも納得がいかないらしい。

猫というものは、こちらが食事を用意しているつもりでも、向こうからすれば給仕係の勤務態度を評価している節がある。

では、好物のチュールを添えれば満足するのか。

ところが、そう簡単にはいかない。

カリカリにチュールをかけると怒るのである。

人間側としては、いつもの食事に好物を追加した親切心のつもりだ。栄養とは別に、少しばかりの楽しみを添えたサービスのつもりでもある。

しかし、猫にとっては話が違うらしい。

カリカリはカリカリ。チュールはチュール。

それぞれに食べる意味があり、勝手に混ぜられては困るということなのだろう。

こちらはサービスのつもりでも、相手からすれば余計なお世話。好物を足せば喜ぶとは限らないのである。

上等な料理に蜂蜜をかけるが如く

こうなると、あの有名な言い回しを思い出す。

「上等な料理に蜂蜜をかけるが如く」

せっかくの料理に、余計なものを加えて台無しにしてしまうという、あの感覚である。

月丸にとっては、いつものカリカリも立派な完成品なのかもしれない。そこへ人間が勝手にチュールをかける。

本人は気を利かせたつもりでも、料理の完成度を損なう改変と受け取られてしまう。

猫にだって、食べ方へのこだわりがあるのだ。

もっとも、チュール単体なら喜んで食べるのだから、好物そのものが嫌いなわけではない。

問題は、何を食べるかだけではなく、どう食べるかということらしい。

長崎ちゃんぽんにウスターソースをかける人がいれば、何も加えずに食べる人もいる。太麺の皿うどんを好む人もいれば、細い揚げ麺でなければ皿うどんではないという人もいるだろう。

食べ方に正解が一つしかないわけではない。

ただし、他人の食べ方を勝手に改造してよいという話でもない。

親切心という名の余計なお世話

人間社会でも似たようなことはある。

よかれと思って手を加えたものが、相手にとっては余計な変更だったりする。本人が気に入っているものに、もっと便利だから、もっとよくなるからと別の何かを足してしまう。

ところが、相手が求めていたのは改善ではなく、今のままであることだったりする。

親切心は、ときとして相手の好みを置き去りにする。

猫のカリカリにチュールをかけるくらいなら、器を分ければ済む話だ。しかし人間同士となると、そう簡単に片づかないこともある。

自分にとってのサービスが、相手にとってもサービスになるとは限らない。

そんな当たり前のことを、九匹の猫たちは毎日の食卓で教えてくれる。

もっとも、猫たちに人生の教訓を授ける意図などないだろう。

食べたいものを、食べたい形で出せ。

要求はおそらく、それだけである。

こちらが何を考えていようと、猫たちは猫たちの都合で生きている。

そして、食事を済ませた月丸は、少し不服そうな顔をして階段を降りて行った。

カリカリは食べた。チュールは別に欲しい。

その要求が通るかどうかは、給仕係である私の判断次第だ。

ただ、上等な料理に蜂蜜をかけるような真似だけは、今後も慎まなければならないらしい。

九匹もいると、食堂の経営も楽ではない。


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