「じゃけん」と「だら」の境界線。方言は土地の記憶を連れてくる

文化の記憶

さとのか4Kにて、鳥取県の鉄道旅を紹介する番組を流し見していた。

旅の終わりに登場したのは、ハンガリーからやって来て、地元に移り住んだという男性だった。彼は最後に「だんだん」という言葉を口にした。

「だんだん」とは、ありがとうという意味を持つ言葉である。

ところが、この言葉には聞き覚えがあった。

愛媛県でも「だんだん」という言葉が使われているからだ。

普段なら何気なく聞き流してしまうような言葉である。それが遠く離れた鳥取県の旅番組から聞こえてくると、妙に不思議な気分になる。

自分の暮らしている土地で当たり前に使われている言葉が、別の土地でも息づいている。

まるで、遠い親戚に旅先でばったり出会ったような感覚である。

同じ日本語でも、言葉の景色は違う

考えてみれば、方言というものは不思議だ。

同じ日本語を使っているはずなのに、土地が変われば言葉の響きも、語尾も、会話の調子も変わってくる。

四国を例にしても、ひとくくりにはできない。

こちらで聞き慣れた話し方と、徳島県で耳にする話し方では、ずいぶん印象が違う。徳島県の言葉には関西に近い響きを感じることもあり、同じ四国だからといって、すべてが同じ調子で話されているわけではない。

県境というものは、地図の上では一本の線で済む。

しかし、言葉の境界線はそう簡単ではない。

山や川、海によって人の往来が限られることもあれば、街道や交易を通じて遠くの土地とつながることもある。人々の移動や交流の積み重ねが、土地ごとの言葉を形づくってきた。

だから、隣の県なのに言葉がずいぶん違うこともあれば、遠く離れた土地で聞き覚えのある言葉に出会うこともあるのだろう。

地図の上の距離と、言葉の上の距離は、必ずしも一致しないのである。

「じゃけん」と「だら」

そういえば、身近なところにも、言葉の違いを感じる場面があった。

下の者の嫁は、県外からやって来た女性である。静岡県の出身なのだが、最初に話をした頃は、やはり言葉の印象が違うと感じることが多かった。

こちらでは、会話の最後に「○○じゃけん」と付けることが、ごく普通にある。

ところが、彼女は「○○だら」と締めくくる。

「じゃけん」と「だら」。

文字にしてしまえば、たったそれだけの違いである。

言っている内容が理解できないわけではない。会話に困るわけでもない。それなのに、語尾が違うだけで、どこか別の土地の空気が感じられるから不思議だ。

もちろん、静岡県といっても地域によって方言は異なる。「だら」も静岡県内のどこでも同じように使われるわけではないだろう。それでも、私にとっては、彼女の言葉の最後に付くその一言が、育った土地の違いを感じさせるものだった。

考えてみれば、方言は珍しい単語ばかりでできているわけではない。

むしろ、こうした何気ない語尾や言葉の抑揚、会話の間合いにこそ、その土地らしさが表れるのかもしれない。

本人にとっては、生まれ育った場所で身につけた、ごく自然な話し方である。こちらが「じゃけん」を意識せずに使っているのと同じことだろう。

それでも、異なる土地で育った人間同士が話をすると、普段は意識もしない自分たちの言葉の癖が、急に輪郭を持ち始める。

そして、最初は違いを感じていた語尾も、何度も耳にしているうちに、その人の話し方として馴染んでいく。

人間の耳というものは、案外いい加減で、なかなか都合よくできているらしい。

方言は、人を隔てる壁か、つなぐ橋か

方言には、その土地で暮らしてきた人々の記憶が染み込んでいる。

何気ない挨拶や語尾の癖、独特の言い回し。本人たちにとっては当たり前すぎて、わざわざ説明するほどのものでもない。

ところが、外から来た人間にとっては、それが土地を知る手掛かりになる。

今回の番組に登場したハンガリー出身の男性も、移り住んだ土地の言葉を身につけ、最後に「だんだん」と口にした。

異国からやって来た人が、その土地の言葉を使う。

それは単に言葉を覚えたというだけでなく、その土地の暮らしに触れ、日々の営みの中に自分の居場所をつくっていくことでもあるのだろう。

もちろん、方言を使えるからといって、その土地の人間になれるという単純な話ではない。

しかし、土地の言葉を口にすることで、そこに暮らす人々との距離が少し縮まることはあるはずだ。

方言は、ときに外から来た人間との間に境界線を引く。

聞き慣れない言葉に戸惑い、会話の輪に入りにくくなることもある。

一方で、覚えた方言を使うことが、その境界線を越えるきっかけにもなる。

同じ言葉が、人を隔てる壁にもなれば、人をつなぐ橋にもなるのだ。

言葉の境界線は、地図には描けない

私たちは普段、自分の使っている言葉を、それほど意識していない。

ところが、旅先で同じ言葉に出会うと、急にその存在が気になり始める。

「おや、ここでも言うのか」と。

反対に、身近な人との会話で聞き慣れない語尾に出会えば、同じ日本語を話しているのに、育った土地の違いを感じる。

遠く離れた鳥取県で聞いた「だんだん」は、愛媛県の言葉を思い出させた。

そして、身近な静岡県出身の女性が口にする「だら」は、こちらで当たり前に使っている「じゃけん」との違いを教えてくれた。

遠くの土地に共通点を見つけ、近くの人に違いを見つける。

なんとも妙な話である。

人間は地図を見て距離を測るが、言葉を聞いて距離を感じることもあるらしい。

ただし、その境界線は決して固定されたものではない。人が移り住み、誰かと暮らし、言葉を交わすうちに、少しずつ変わっていく。

生まれ育った土地の響きは、遠くへ移り住んでも、何気ない語尾の中に残っている。

そして、こちらがその響きに慣れてしまえば、いつの間にか違和感も薄れていく。

鳥取県の旅番組を眺めていただけなのに、気がつけば方言の境界線について考えていた。

旅に出なくても、テレビから流れてきた一言が、身近な暮らしを見つめ直すきっかけになることもある。

さて、次に聞き慣れない語尾に出会ったとき、私はどこの土地を思い浮かべるのだろう。

「じゃけん」と「だら」。

たった二文字、三文字の違いの向こう側に、それぞれの土地で過ごしてきた時間がある。

言葉の境界線というものは、どうやら地図の上だけでは引ききれないらしい。


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