『Pearl』『X』『MaXXXine』。
この3作品は、それぞれ時代も舞台も違うように見える。
『Pearl』では1920年代の農場。
『X』では1979年のテキサス。
そして『MaXXXine』では1985年のハリウッド。
時代が進み、舞台も変わる。
しかし、3作品を続けて観ていると、ある共通したものが見えてくる。
それが、
「人間は、誰かに見られることで自分を作っていく」
という問題だ。
これは単純な「承認欲求」の話ではない。
誰かに見られる。
誰かを見る。
自分を見せる。
誰かの姿を映像として残す。
そして、その映像をさらに別の誰かが見る。
この循環の中で、人間の欲望や人生そのものが変化していく。
『X』三部作は、そんな「視線」の変化を、時代をまたいで描いているように思える。
『Pearl』──「私を見てほしい」
『Pearl』のPearlは、農場という閉じた場所で生活している。
しかし、彼女の意識はそこに収まっていない。
映画の世界へ行きたい。
スターになりたい。
誰かに自分の才能を見つけてほしい。
つまり彼女は、
「私を見てほしい」
と願っている。
その願望は、最初から狂気だったわけではない。
自分の人生を変えたい。
もっと広い世界へ行きたい。
特別な存在として認められたい。
そうした願望は、多くの人間が持っているものでもある。
しかしPearlの場合、その欲望が現実との落差によって少しずつ歪んでいく。
そして最後には、「スターらしい自分」を演じることそのものが目的になってしまう。
あのラストの笑顔が怖いのは、そこにある。
感情が壊れていても、見られるための顔だけは残っている。
『X』──「見る人」と「見られる人」
『X』になると、「視線」の関係が変わる。
今度は、カメラが登場する。
若者たちは農場を借りてポルノ映画を撮影する。
そこには、
撮影する側
と
撮影される側
がいる。
つまり、「見る人」と「見られる人」が明確に分かれる。
しかし、映画を撮る側もまた、自分自身を見せることで何かを得ようとしている。
成功したい。
有名になりたい。
映画を作りたい。
身体を見せたい。
人に認められたい。
そこには『Pearl』と共通する欲望がある。
ただし、『X』では、その欲望がカメラによって具体的な形になる。
カメラは、人間の身体を切り取る。
演技を記録する。
表情を残す。
そして、その映像を誰かが見る。
人間は、映像になった瞬間に「見られる対象」になる。
『MaXXXine』──「見られること」を武器にする
『MaXXXine』では、マキシーンがさらに先へ進む。
彼女は、自分から「見られる世界」へ入っていく。
ハリウッド。
映画。
オーディション。
スターという場所。
彼女は「見られること」を恐れるだけではない。
むしろ、それを利用して自分の人生を変えようとする。
ここがPearlとの大きな違いだ。
Pearlは「誰かに見つけてもらいたい」と願った。
マキシーンは、自分からカメラの前へ進む。
そして、
「見られることで、自分の人生を手に入れる」
ことを目指す。
しかし、見られることには代償もある。
他人から評価される。
消費される。
イメージを作られる。
そして、自分自身まで商品として扱われる。
自由になるために、自分を演じなければならない。
ここには大きな皮肉がある。
「見る」と「見られる」は入れ替わる
3作品を並べると、視線の関係は固定されていないことにも気づく。
Pearlは見られたい。
『X』では人間が撮影する。
マキシーンは見られることを利用する。
しかし、撮影する側もまた誰かに見られている。
スターも観客に見られる。
映画監督も作品によって評価される。
宗教を掲げる人間も、自分たちの行為を誰かに見せようとする。
つまり、
「見る側」と「見られる側」は、いつでも入れ替わる。
完全に一方的な関係ではない。
人間は誰かを見る一方で、自分もまた誰かの視線の中にいる。
カメラが生み出すもう一つの視線
この三部作で重要なのが、カメラの存在だ。
絵画なら、描く人間が対象を選ぶ。
写真なら、撮影者がフレームを決める。
映画なら、監督や撮影者が何を映すかを決める。
つまり、記録とは単純に「現実を残す」ことではない。
「何を残し、何を残さないか」を選ぶ行為でもある。
『X』ではポルノ映画という形で人間の身体が映像化される。
『MaXXXine』では、ハリウッドという巨大な産業の中で人間が映像によって商品化される。
さらに父親側の組織は、殺人そのものを映像として記録する。
ここまで来ると、
「映像にすれば、何でも記録になるのか?」
という疑問が生まれる。
記録なのか。
娯楽なのか。
芸術なのか。
宣伝なのか。
あるいは、単なる他者の消費なのか。
その境界線は意外に曖昧だ。
宗教も映画も「人間を見る」
ここで宗教の存在が面白くなってくる。
宗教と映画産業は、一見すると正反対に見える。
一方は欲望を戒める。
もう一方は欲望を映像化する。
しかし、どちらも人間の身体や欲望を強く意識している。
「こう生きるべきだ」と示す宗教。
「こう見せれば売れる」と考える映画産業。
方向は違っても、どちらも人間の行動や欲望に意味を与えようとする。
そして『MaXXXine』では、ハリウッドやアダルト産業を否定する側が、別の形で人間の身体や死を映像化する。
ここに、この三部作の皮肉がある。
自分たちは相手とは違うと思っていても、同じような行為を別の名前で行っている。
「娯楽」
「芸術」
「記録」
「信仰」
「使命」
名前が変われば、行為の意味も変わったように感じる。
しかし、カメラの前にいる人間から見れば、自分の身体や人生が他者の目的のために利用されているという点は変わらない。
葛飾応為から『X』三部作へ
ここまで考えると、以前書いた葛飾応為の記事ともつながってくる。
葛飾応為について考えたとき、私が気になったのは、
「人間をどのような視線で見るのか」
ということだった。
絵画は、人間を残す。
写真も残す。
テレビも残す。
映画も残す。
そして現在では、SNSによって誰もが自分自身を撮影し、発信する。
江戸時代の絵師と、1980年代のハリウッド。
一見すると、まったく別の世界である。
しかし、
誰が見るのか。
誰が見られるのか。
誰がその姿を残すのか。
という問題は変わらない。
技術が変わっただけで、人間と視線の関係そのものは続いている。
だから『Pearl』『X』『MaXXXine』は、単なるホラー映画の三部作としてだけではなく、
「人間は他者の視線によって、どのように自分自身を作っていくのか」
を考える作品としても見ることができる。
そして、その視線は時に人間を救う。
誰かに見つけてもらうことで、自分の存在を確認できるからだ。
しかし同時に、その視線は人間を縛る。
どう見られるかを気にするようになるからだ。
見られたい。
でも、見られるのは怖い。
自分を見てほしい。
しかし、自分の本当の姿まで見られたくはない。
この矛盾こそが、人間の「視線」にまつわる最も奇妙な部分なのかもしれない。
『X』三部作は、そんな矛盾を、時代と場所を変えながら繰り返し映している。
そして、その先に残るのは一つの問いである。
私たちは、誰かに見られることで、自分が何者なのかを確認しているのではないだろうか。
次の記事
ここまで見てくると、『X』三部作に登場する農場もハリウッドも、単なる舞台ではなく、人間の欲望や価値観が交差する場所として見えてきます。では、なぜ若者たちは農場へ向かい、なぜ老いた農場主はそこに取り残されていたのでしょうか。次は視線を「場所」へ移し、『X』に描かれた農場とハリウッド──古い共同体と新しい欲望がぶつかる境界線について考えてみたいと思います。



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