雑談は無駄話ではない──『レザボア・ドッグス』が描いた、会話と信頼の境界線

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久しぶりに、クエンティン・タランティーノ監督の『レザボア・ドッグス』を流し見していた。

1992年公開の作品だから、今から考えれば30年以上前の映画である。

映像やファッションには時代を感じる。しかし、男たちがくだらない話をしている場面や、何気ない一言で空気が変わっていく場面には、今見ても妙な生々しさがある。

この映画の面白さは、銃撃戦や血糊だけではない。

むしろ、男たちが何を話しているのか分からないような雑談の時間にある。

低予算映画だからこそ生まれた「会話」

『レザボア・ドッグス』は、後のタランティーノ作品と比べれば小規模な映画だった。

衣装にも十分な予算を掛けられず、出演者が自前の黒いズボンを持ち寄ったという話もある。血糊にはシロップが使われた。

金がない。

では、何を使うのか。

人間である。

俳優にしゃべらせる。

歩かせる。

座らせる。

そして、くだらない話をさせる。

もちろん、これだけが低予算の理由ではないだろうが、結果的に『レザボア・ドッグス』は「会話の面白さ」が強く印象に残る映画になった。

音楽の話。

女性の話。

食事の話。

映画の話。

一見すると、物語を進めるためには必要のない会話である。

しかし、こういう話をしていると、その人間の性格が見えてくる。

どんな冗談を言うのか。

何に腹を立てるのか。

他人の話をどう聞くのか。

どこまで他人に踏み込むのか。

これは私たちの日常でも同じだ。

初対面の人に、

「あなたはどういう人ですか?」

と聞くことは、あまりない。

「今日は暑いですね」

「この店、よく来るんですか」

「最近この映画を見ましてね」

そんな何気ない会話から、人間関係は始まる。

だから、雑談とは単なる暇つぶしではなく、相手との距離を測る小さな試験なのかもしれない。

信頼は、くだらない話から生まれる

信頼関係というと、

「お前を信用する」

「困ったときは助ける」

「絶対に裏切らない」

といった大きな言葉を思い浮かべる。

しかし、現実の人間関係は、そんな劇的な場面だけで作られているわけではない。

一緒にくだらない話をする。

同じ冗談で笑う。

何度も同じ話を聞く。

仕事の合間に缶コーヒーを飲みながら浮世話をする。

そうした小さな時間の積み重ねによって、

「この人なら話しても大丈夫そうだ」

という感覚が生まれてくる。

『レザボア・ドッグス』では、それが強盗をする男たちの間で描かれている。

普通の会社員でもない。

仲の良い友人同士でもない。

それでも彼らは、仕事とは関係のない話をする。

人間というものは、危険な状況にいても、くだらない話をする。

もしかすると、その「くだらない話」があるからこそ、人間は相手をただの他人ではなく、一人の人間として見ることができるのかもしれない。

「リー・マーヴィンのファンだろ?」

今回、あらためて面白いと思ったのが、工場でブロンドとホワイトが一触即発になる場面だった。

緊張が高まり、今にも揉め事が始まりそうになる。

そこでブロンドがホワイトに、

「あんた、リー・マーヴィンのファンだろ?」

と声を掛ける。

すると、張り詰めていた空気が少し緩む。

若い頃の私はリー・マーヴィンを知らなかった。

だから、

「なぜ、この名前を出しただけで場が収まるんだ?」

と思ったものだった。

しかし、その後60年代の古い映画を見るようになり、ようやく彼を知った。

白髪の短髪。

低い声。

無骨な顔つき。

若々しい二枚目とは正反対の、いかにも「渋い男」という雰囲気を持っている。

『プロフェッショナル』や『特攻大作戦』などで見せる存在感も含めて、

「ああ、そういうことだったのか」

と、何十年も経ってから分かったのである。

名前一つで人物が見える

タランティーノは、リー・マーヴィンについて長々と説明しない。

名前を一つ出すだけだ。

映画を知っている人なら、

白髪。

低い声。

無骨な顔。

西部劇。

軍人。

タフガイ。

そんなイメージが一気に浮かぶ。

つまり、「リー・マーヴィン」という名前そのものが映画的な記号になっている。

そして、

「お前もリー・マーヴィンが好きなんだろ?」

という一言には、

「こいつも俺と同じものを格好いいと思っている」

という共通点が生まれる。

人間は、案外こういうところで距離を縮める。

同じ歌手が好きだった。

同じ車が好きだった。

昔の映画が好きだった。

同じ店に通っていた。

仕事や金とは関係のない共通点が、人間同士の間に小さな橋を架けることがある。

だから、タランティーノ作品の映画ネタは、単なるマニア向けの小ネタではない。

登場人物が何を格好いいと思っているのかを伝える道具でもある。

昔分からなかったものが、後になって分かる

ここが、今回この映画を見直していて一番面白かったところでもある。

映画そのものは変わっていない。

変わったのは、こちら側だ。

若い頃にはリー・マーヴィンを知らなかった。

その後、60年代の映画を見るようになった。

俳優を知った。

出演作品を見た。

そして、昔見た『レザボア・ドッグス』の一言が、ようやくつながった。

映画は、その場ですべて理解する必要がない。

何十年か後に、別の映画を見たことで意味が分かることだってある。

これは映画の面白いところだと思う。

そして、これは古い映画そのものの魅力にもつながってくる。

「古い」のではなく、「渋い」

若い頃の私は、古い映画を見ても、

「古い映画だな」

くらいにしか思わなかった。

しかし、こちらも年齢を重ねてくると、少し見方が変わってくる。

白髪の俳優が格好よく見える。

使い込まれた車が格好よく見える。

古い酒場のカウンターに味を感じる。

昔の歌を聴いて、「今の曲にはないものがある」と思う。

これは、古いものが変わったのではない。

見る側が変わったのだ。

人も、家も、車も、道具も、時間が経てば古くなる。

家には傷がつく。

車には色褪せが出る。

家具には手垢が染み込む。

人間には白髪や皺が増える。

普通に考えれば、どれも「古くなった」ということになる。

ところが、世の中には古くなったからこそ価値が出てくるものがある。

いわゆる「ヴィンテージ」と呼ばれるものだ。

古い車の傷も、長年住んだ家の柱の傷も、単なる劣化とは限らない。

そこには、その物と一緒に過ごした人間の時間が残っている。

だから、

古くなることと、価値がなくなることは同じではない。

時間によって価値を失うものもあれば、時間によって味わいが増すものもある。

その違いを生むものの一つが、「愛着」なのかもしれない。

映画にも時間の味がある

そう考えると、『レザボア・ドッグス』にも同じことが言える。

1992年の映画だから、現在から見れば古い。

しかし、30年以上経った今でも男たちの会話は面白い。

若い頃には意味が分からなかったリー・マーヴィンの名前も、時間を経て意味が分かるようになった。

映画は変わっていない。

こちら側にも時間が積み重なったのである。

だから、古い映画を見るということは、昔の作品を見るだけではない。

昔の自分と、今の自分の違いを見ることでもある。

昔は気にもしなかった台詞に引っ掛かる。

昔は若い俳優ばかり見ていたのに、今は脇役の老俳優が気になる。

そんな変化も、映画を見る楽しみの一つなのだろう。

そして、私たちも雑談から記事を作っている

ここまで考えてくると、映画の話が自分たちのブログ作りにもつながってくる。

今回も最初は、

「『レザボア・ドッグス』って、雑談が面白い映画だな」

という程度だった。

ところが話しているうちに、

「そういえばリー・マーヴィンって何者だったんだ?」

となった。

そこから60年代映画の話になり、

「古い映画には古い映画の味があるな」

という話になった。

さらに、

「古い車や家にも同じことが言えるんじゃないか」

となった。

そして気がつけば、映画の話をしていたはずなのに、「古いものの渋み」と「人間の時間」の話になっている。

まあ、いつものことである。

しかし、こういう脱線から記事が生まれる。

考えてみれば、この記事そのものが「雑談の効用」を証明している。

最初から「古いものの価値について記事を書こう」と考えていたわけではない。

映画を流し見して、気になった一言について話していただけだった。

それが別の話につながり、また別の話へ進んでいった。

雑談とは、目的地を決めずに歩くようなものなのかもしれない。

最短距離ではない。

途中で何度も道を外れる。

しかし、その途中で思いがけないものを見つけることがある。

おわりに──時間を重ねたものだけが持つ表情

『レザボア・ドッグス』の面白さは、犯罪者たちがくだらない話をしているところにある。

しかし、その雑談の中には、その人物の趣味や価値観、人間関係が詰まっている。

そして映画を見る側にも同じことが起こる。

昔見た映画の一言が、何十年か後に別の映画とつながる。

知らなかった俳優を知る。

昔の作品を見直す。

すると、以前は気づかなかったものが見えてくる。

人も古くなる。

家も古くなる。

車も古くなる。

映画も古くなる。

しかし、古くなることと、価値がなくなることは同じではない。

時間を経たものには、時間を経たものにしかない表情がある。

そして、その表情が分かるようになるためには、見る側にも少しばかり時間が必要なのだろう。

若い頃には「古い」としか思わなかったものが、歳を重ねると「渋い」と感じるようになる。

昔は意味が分からなかった台詞が、何十年か経ってから分かるようになる。

それは作品や人や物が変わったからではない。

こちら側にも時間が積み重なったからだ。

映画の中の男たちは、リー・マーヴィンについて雑談する。

そして私たちは、その映画を見ながら、今度はその俳優について雑談している。

時代は違っても、やっていることは案外同じなのかもしれない。

人間は映画を見て、誰かを格好いいと思う。

その誰かについて語る。

そして、その話を聞いた別の人間が、またその映画を見る。

そうやって映画は、次の世代へ渡っていく。

今日もまた、映画を流し見しながら始めた雑談が、いつの間にか一つの記事になってしまった。

まあ、これも映画の楽しみ方の一つということにしておこう。

雑談は、無駄話ではない。

そこには、人間を見るための小さな窓があり、誰かとの距離を測る物差しがあり、ときには何十年も前の映画と現在をつなぐ橋まで架かっている。

そして、そんな雑談から生まれた記事が、また誰かの暇つぶしになれば、それも悪くない。

むしろ、こういう無駄な寄り道こそ、長く残るものなのかもしれない。


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