前回の記事では、加工技術やAIによって「見た目」が以前ほど信用できなくなりつつあることについて書いた。
整った身体も、美しい顔立ちも、ある程度は作ることができる。
そうなると、一つの疑問が浮かんでくる。
私たちはこれから、何をもって「本物」だと判断するのだろうか。
昔は比較的わかりやすかった。
身体は生活を映していた。
農作業を続ければ農夫の身体になり、現場仕事を続ければ職人の身体になる。
何をして生きているのかが、ある程度は見た目に表れていたのである。
もちろん例外はあっただろう。
それでも身体と生活は今より近い場所にあった。
ところが現代では少し事情が違う。
身体は作ることができる。
労働は見えにくくなった。
そして信用は数字によって表現されるようになった。
SNSのフォロワー数。
再生回数。
レビューの評価。
私たちは様々な数字を通して他人を判断する。
便利ではある。
しかし時々、その数字の向こう側が見えなくなることもある。
考えてみれば、不思議な時代である。
身体は身体として存在し、
仕事は仕事として存在し、
信用は信用として存在している。
本来なら結びついていたはずのものが、それぞれ独立して動いている。
かつては身体を見れば、その人がどのような仕事をしてきたのかがある程度想像できた。
今ではそれが難しい。
パソコンに向かう仕事が増えたことで、熟練していても身体に痕跡が残らない場合も多い。
つまり身体・労働・信用という三つの要素が、少しずつ離れ始めているのである。
では、そのような時代において「本物らしさ」はどこに宿るのだろうか。
私は最近、結果そのものよりも「過程」に目が向くようになった。
どのように作られたのか。
どのような時間を積み重ねてきたのか。
どのような失敗を繰り返してきたのか。
そうしたものに触れた時、人は不思議と納得してしまう。
そこには数字では表せない説得力がある。
それは完成品よりも、完成するまでの履歴に近い。
見た目よりも、その背後に流れてきた時間である。
おそらく私たちは、無意識のうちにそこを見ているのだと思う。
だからこそ、経験を重ねた人の話に耳を傾ける。
長く続けてきた人に安心感を覚える。
派手さはなくても、どこか信用してしまう。
それは知識の量ではなく、積み重ねられた時間を感じ取っているからなのかもしれない。
本物らしさとは、完成された姿の中にあるのではない。
その姿に至るまでの過程の中にある。
もしそうだとすれば、本物らしさは見た目だけでは判断できない。
むしろ時間の流れの中にしか存在しないものなのだろう。
そして、そのことを最も分かりやすく教えてくれるのが、長年働いてきた人たちの身体なのかもしれない。
次回は、なぜ農夫や職人の身体に独特の説得力が宿るのかについて考えてみたい。
『本物らしさはどこへ向かうのか――身体・労働・信用が分離した社会で』
本物らしさは見た目ではなく、積み重ねられた時間の中に宿るのかもしれません。
では私たちは、なぜ熟練者の身体に美しさや説得力を感じるのでしょうか。
→ 次の記事
『なぜ農夫の身体は美しく見えるのか――熟練者が未来を読む理由』



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