――言葉は情報ではなく空気を伝えている
前章では、ドキュメンタリーが単なる現実の記録ではなく、撮影者の視点や編集によって形作られた「意味づけされた現実」であることを書いた。
では、映像ではなく「声」の場合はどうだろうか。
私たちは実況やDJの語りを聞くと、どこか芝居がかった印象を受けることがある。
わざとらしい。
大げさだ。
もっと普通に話せばいいのではないか。
そう感じることも少なくない。
しかし、その違和感こそが実況やDJの役割を理解する手掛かりなのかもしれない。
カートゥーンネットワークで『スクービー・ドゥー!レッスルマニアミステリー』を流し見していたとき、私はそのことを改めて考えさせられた。
クライマックス。主人公がフィニッシュホールドを決めると実況はこう叫ぶ。
「信じられないパワーだ!」
「圧倒的だ!」
「完全に叩きのめした!」
冷静に考えればかなり大げさである。
しかし同時に、妙な納得感もあった。
作中で仲間が言う一言が、それを象徴している。
「これはショーだからね。」
実況は事実ではなく体験を伝えている
実況というと、何が起きたかを説明する仕事のように思える。
だが実際には少し違う。
もし事実だけを伝えるなら、
「技が決まりました」
の一言で済むはずだ。
しかし実況はそうしない。
声を張り上げ、
言葉を重ね、
観客の感情を代弁する。
なぜなら実況の役割は、
「何が起きたか」
ではなく、
「どんな体験だったか」
を伝えることだからである。
英語実況に多い強い言葉
英語圏のスポーツ実況では、
amazing
incredible
unbelievable
といった強い表現が頻繁に使われる。
細かな違いを説明するためではない。
そこにあるのは、
「とにかくすごい」
という感情の共有である。
正確さよりも熱量。
説明よりも興奮。
それが実況の本質なのだろう。
ラジオ実況は見えない映像を作る
この構造は日本でも変わらない。
特にラジオ中継は分かりやすい。
映像がない以上、実況者は言葉だけで景色を作らなければならない。
打球の行方。
観客の歓声。
選手の表情。
実況は情報を伝えているようでいて、実際には聴き手の頭の中に映像を描いている。
それは説明というより演出に近い。
DJは情報ではなく空気を作る
さらに興味深いのがラジオDJである。
例えば小林克也の語りを聞くと、日常会話とはまったく違うことに気づく。
言葉そのものよりも、
声の強弱、
間の取り方、
リズム、
テンポ、
そうした要素が前面に出ている。
これは情報伝達ではない。
声そのものを音楽の一部として使う演出である。
なぜ英語っぽく聞こえるのか
こうした語りが英語的に聞こえる理由も興味深い。
英語はストレスと呼ばれる強弱によってリズムを作る言語である。
一方、日本語は比較的均一なリズムを持つ。
そのため強弱を強調した話し方は、日本人にとってどこか外国語的な響きを持つ。
だが本質は英語か日本語かではない。
重要なのは、
言葉を意味としてではなく、
音として扱っていることだ。
共通しているのは感情の演出
ここまで見てきたものはすべて同じ構造を持っている。
プロレス実況は興奮を作る。
ラジオ実況は景色を作る。
DJは空気を作る。
ニュースが出来事を物語として見せるように、
実況やDJは言葉を使って感情を演出しているのである。
私たちは言葉の意味だけを受け取っているわけではない。
その場の熱量や空気も同時に受け取っている。
結論 わざとらしさは体験を作るために存在する
実況やDJの語りがわざとらしく感じるのは当然だ。
それは現実をそのまま写していないからである。
しかし逆に言えば、
そのわざとらしさこそが体験としてのリアリティを生み出している。
英語の「amazing」という一言も、
プロレス実況の誇張された叫びも、
DJのリズムある語りも、
すべては同じ目的に向かっている。
――言葉で空気を作ること。
そして考えてみれば、それは映画も同じである。
実況が声で空気を作るように、
映画は映像で空気を作る。
次章では、なぜ映画が現実をそのまま映さず、誇張し、省略し、ときには非現実的な演出さえ用いながら人々を惹きつけるのかを考えてみたい。



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