魅+夜話 第6話 ひとり立ちの儀式

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ある晩のことだった。


父は何も言わず、車を豚太郎の駐車場へ滑り込ませた。


エンジンをかけたまま、ダッシュボードから千円札を数枚取り出すと、兄と私に手渡した。


「お前らだけで食べてこい。」


それだけだった。


理由も説明もない。


私たちは顔を見合わせながら車を降り、店の暖簾をくぐった。



子どもだけで町中華へ入る。


今では珍しいことではないのかもしれないが、当時の私には少し勇気がいる出来事だった。


店の人は一瞬だけ不思議そうな顔をした。


それでも何も聞かず、水とメニューを運んできてくれる。


私たちはぎこちなく注文し、料理が運ばれてくるのを待った。


湯気の立つラーメン。


焼きたての餃子。


いつも見慣れた景色のはずなのに、その夜だけは少し違って見えた。


自分で注文し、自分で食べ、自分で会計を済ませる。


たったそれだけのことが、子どもには思いのほか大きな出来事だった。


店を出ると、父は何も聞かなかった。


「美味かったか。」


そんな一言さえない。


ただ、「乗れ」とだけ言って車を走らせた。


帰り道も、車内にはエンジン音だけが響いていた。



大人になった今なら思う。


あれは父なりの「ひとり立ちの儀式」だったのかもしれない。


子どもは、いつか親の手を離れて生きていく。


だからこそ、小さなことでも自分でやってみる。


父はそれを言葉ではなく、一杯のラーメンで教えようとしたのだろう。


あの夜に覚えたのは、ラーメンの味だけではない。


少しだけ大人へ近づいたという、不思議な感覚だった。



もっとも――。


人生最初の「社会への第一歩」が、豚太郎だったというのはいかにも我が家らしい。


神社でもない。


卒業式でもない。


町中華のラーメン一杯。


我が家では、大人への入口にも、ほんの少しだけミタスの香りが漂っていたのである。


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