仮面は隠すためだけにあるのではない――『シン・シン』が映し出す役柄の力

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Amazon Prime Videoで『シン・シン』を流し見していた。

刑務所内で行われる演劇更生プログラムを題材にした作品である。

重い題材を想像していたのだが、劇中で受刑者たちが作ろうとしているのは意外にも喜劇だった。

古代や未来を行き来しながら様々な人物が登場する荒唐無稽な物語。

その創作の輪の中に、新しく入ってきた受刑者がいる。

彼は仲間との活動に距離を置き、心を閉ざしている。

だが演劇を続けるうちに、少しずつ変化が生まれていく。

その様子を眺めながら、以前書いた『マスク』や『パール』の記事を思い出していた。

人は社会の中で様々な顔を持っている。

職場での顔。

家庭での顔。

友人と接する時の顔。

そして誰にも見せない顔。

映画『マスク』では仮面によって抑圧された人格が解放され、『パール』では理想の役柄に囚われた人物が破滅へ向かっていった。

人は多かれ少なかれ何かを演じながら生きている。

だが『シン・シン』を見ていて感じたのは、それとは少し違う視点だった。

演劇とは別人になるための技術ではない。

別人を演じることで、自分自身を見つめる行為でもあるのだ。

そう考えると、喜劇役者たちの存在も興味深い。

昭和の喜劇人や寅さんを演じた渥美清は、舞台の外では物静かな人物として知られていた。

派手に見える役者ほど、実は冷静な観察者であることが少なくない。

笑いは勢いだけで生まれるものではない。

間の取り方。

視線の向け方。

沈黙の長さ。

そうした細かな計算の上に成り立っている。

演者は役になりながらも、同時に客席から自分を眺めている。

演じる自分と観察する自分が共存しているのである。

考えてみれば、私たちの日常も似たようなものかもしれない。

会社では会社員という役柄を演じる。

店では客として振る舞う。

家庭では家族としての役割を果たす。

その役柄は窮屈に感じることもある。

本当の自分を隠しているように思える時もある。

だが一方で、その役柄に守られている面もある。

常に本音だけで生きられる人は少ない。

だから人は役割を身にまといながら社会を渡っていく。

役柄とは自分を縛る鎖であると同時に、自分を守る鎧でもあるのだろう。

私自身、記事を書いている時には少し不思議な感覚がある。

目の前の出来事を当事者として眺めるのではなく、一歩引いた場所から見ている自分がいる。

映画を見ても。

ニュースを見ても。

日常の小さな出来事に触れても。

「なぜそうなるのだろう」

「別の見方はないだろうか」

そんなことを考えながら言葉を拾っている。

気づけば、その視点こそが私にとっての「ことのはびと」なのかもしれない。

それは別人格ではない。

物事との距離を測るための立ち位置であり、観察者としての視点である。

『シン・シン』の受刑者たちは演劇を通じて新しい自分を見つけていく。

喜劇役者たちは笑わせながら人間を観察している。

そして私たちもまた、様々な役柄を演じながら日々を生きている。

仮面は本心を隠すためだけにあるのではない。

時には自分を守り、時には自分自身を知るために必要なものなのだと思う。


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