私は食べたことがない ― 消えゆく郷土菓子『つみかん』の話

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『画像のつみかんはイメージ作製したものです』

愛媛県松山市には、「つみかん」という郷土菓子があった。

「あった」と過去形で書くのは、私自身が一度も食べたことがないからである。

地元で生まれ育ったにもかかわらず、その存在を知った頃には、すでにほとんど見かけることのない和菓子になっていた。

つみかんは、小豆の黒あんを生地で包み、三方を指でつまんで折りたたんだ独特の形をした蒸し菓子である。

「つみかん」という名前も、この”つまんだ形”に由来すると言われている。

法事など、人が集まる特別な日に注文される和菓子で、生菓子のため日持ちはしない。

そのため普段店頭に並ぶことは少なく、法事の予定に合わせて和菓子店が作る、まさに特別な菓子だったそうだ。

年配の方々にとっては、ごく当たり前に目にしてきた菓子だったのだろう。

しかし私の世代になると、名前を知る人さえ少なくなっている。

それは和菓子が嫌われたからではない。

つみかんが必要とされる場面そのものが少なくなったのである。

かつて法事は、親族が一堂に会する大切な時間だった。

故人を偲びながら近況を語り合い、普段会えない親戚同士が顔を合わせる。

子どもたちは退屈そうにしながらも従兄弟たちと遊び、大人たちは昔話に花を咲かせる。

帰り際には、つみかんが手渡される。

そんな光景が、この土地には確かにあった。

時代は変わった。

家族葬が増え、法事も小規模になった。

冠婚葬祭を専門業者が担うことも珍しくなくなり、親族や地域の人々が総出で準備をすることも少なくなった。

それは決して悪いことではない。

高齢化が進む中で、人々の負担を軽くする仕組みは必要であり、便利になったことも多い。

しかし、その便利さと引き換えに、静かに姿を消していくものもある。

つみかんは、その一つなのだと思う。

小豆には古くから魔除けの意味があるとされ、祝い事にも法事にも用いられてきた。

つみかんもまた、ただ甘い菓子ではなく、人が集まり、故人を偲び、同じ時間を過ごす場を彩る存在だったのではないだろうか。

私はつみかんを食べたことがない。

味も知らない。

それでも、この菓子に惹かれる。

気になっているのは、味ではない。

その菓子が当たり前に作られ、人が当たり前に集まっていた時代の風景である。

地域文化は、有名な祭りや観光名所だけで受け継がれるものではない。

特定の日にだけ作られる和菓子や、地元の人だけが知る風習の中にも、土地の記憶は息づいている。

つみかんは、幻になりつつある和菓子なのかもしれない。

しかし、本当に消えつつあるのは和菓子ではなく、人が集まり、同じ時間を分かち合う風景の方なのではないか。

そんなことを、この名前も知られなくなった小さな郷土菓子が教えてくれているような気がする。


人が集まる機会が減った今だからこそ、私は人の何気ない会話や人生の断片に惹かれるのかもしれません。

深夜の町中華で聞こえてくる雑談や、酒場で交わされる何気ない会話には、派手な出来事ではなく、一人ひとりの暮らしが映し出されています。

なぜ私たちは、見知らぬ誰かの人生に心を動かされるのでしょうか。

次回は、そんな「人間観察」の不思議な魅力について綴ってみたいと思います。

次の記事

『人はなぜ他人の人生に興味を持つのか』

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