『バレットヘッド』が思い出させた一匹の犬──「飼う」という責任について

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映画を観ていると、思いがけない記憶が蘇ることがある。

先日、ザ・シネマで『バレットヘッド』を流し見しながら作業をしていた。

銀行強盗に失敗した三人組が、逃走の末に廃屋の倉庫へ身を隠す。しかし、その場所は闇闘犬の飼育場だった。彼らは思わぬ大金を手にする一方で、一頭の闘犬に命を狙われることになる。

映画の構成はシンプルだが、私の印象に残ったのは人間と犬との関係だった。

闘犬のオーナーは、その犬を子犬の頃に拾い、愛情を注いで育てていた。

しかし、犬が成長すると、その愛情は少しずつ別のものへと変わっていく。

犬は家族ではなく、賭けで金を稼ぐための道具になってしまう。

勝てば価値がある。

負ければ飼育部屋で縛り付けられ、容赦なく制裁を受ける。

犬は最後まで主人を信じようとしているのに、人間だけがその信頼を裏切っていく。

その場面を見た瞬間、私は幼い頃のある出来事を思い出した。

叔母が保健所から一匹の雑種犬を引き取ってきたことがある。

最初の頃は可愛がっていたのだろう。

しかし、叔母は夜の酒場で働くようになり、犬の世話は祖父母へ任されることになった。

犬は農機具をしまう倉庫へ移され、そこでつながれたまま暮らすようになった。

餌は毎日もらえる。

雨風はしのげる。

病気になれば診てもらえたかもしれない。

けれど、それだけだった。

散歩へ連れて行く人はほとんどいない。

遊ぶ相手もいない。

ただ毎日を、同じ場所で過ごしていた。

その犬は不思議なほど大人しい犬だった。

吠えない。

暴れない。

だから家族も、「このままで問題ない」と思っていたのだろう。

ある日、私が散歩へ連れ出したことがあった。

河原の端を一緒に歩いた。

犬は夢中になって匂いを嗅ぎ、草むらへ入り、風を感じながら歩いていた。

そして帰る時間になっても、なかなか倉庫のほうへ戻ろうとしなかった。

「もう少し歩きたい。」

言葉は話せなくても、そんな気持ちが伝わってきた。

だから私は、犬が納得するまで一緒に歩いた。

あの日の散歩は、犬にとって久しぶりに自由を感じられた時間だったのかもしれない。

今でも時々思う。

あの犬は幸せだったのだろうか、と。

餌を与えることと、一緒に暮らすことは違う。

命を生かすことと、命に寄り添うことも違う。

映画の闘犬ほど過酷な環境ではなかった。

だからといって、幸せだったとも言い切れない。

私はあの日の出来事以来、「犬を飼いたい」と思ったことがない。

嫌いだからではない。

責任を持てないのなら、最初から飼うべきではないと思ったからだ。

動物は、人間の都合で迎え入れられる。

しかし、その命は人間の都合だけで生きているわけではない。

『バレットヘッド』は犯罪映画として観ることもできる。

けれど私には、一匹の犬が最後まで人間を信じ続けた物語として心に残った。

そして同時に、河原からなかなか帰ろうとしなかった一匹の雑種犬の姿を、何十年ぶりかに思い出させてくれた映画でもあった。


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映画が思い出させてくれたのは、一匹の犬の記憶だけではありませんでした。人は命とどう向き合い、どこで責任を忘れてしまうのか。その問いは、動物だけではなく、人間同士の関係にも静かにつながっていきます。

「『可愛い』だけでは飼えない──命を迎えるということ」

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