最近、不思議なことが続いている。
記事を書いていると、忘れていたはずの記憶が断片的によみがえってくるのだ。
思い出そうとしているわけではない。
むしろ、その記事とは関係のないように思える景色や出来事が、ふと頭の中に浮かんでくる。
『ねるねるねるね』という駄菓子について書いていたときは、祖父と一緒に「ねり蕎麦」を作った記憶がよみがえった。
「野良牛」という記事を書いているときには、実家で飼っていた黒い牛の姿を思い出した。
祖父が刻んだ干し草を、黙々と食べ続ける小柄な牛だった。
牛の種類も知らない。
何歳だったのかも覚えていない。
それでも、静かに草を噛む姿だけは、なぜか今でも鮮明に思い出せる。
考えてみると、祖父はとても寡黙な人だった。
これといった会話をした記憶はほとんどない。
人生の教訓を語られたこともなければ、長話をした覚えもない。
それなのに、不思議と祖父と過ごした景色は数多く残っている。
裏山で一緒に野焼きをしたこと。
山道を黙って歩いたこと。
牛舎で牛を眺めていたこと。
蕎麦を練る祖父の隣で、自分も同じように箸を動かしていたこと。
どれも特別な出来事ではない。
あの頃の祖父にとっては、ごく当たり前の日常だったのだろう。
けれど、その何気ない時間が、何十年という歳月を越えて今の私の中に残っている。
私は最近、「記憶とは何なのだろう」と考えるようになった。
人は出来事を覚えているのではない。
その場で感じた空気や匂い、手触り、音、そして誰かと共有した時間を覚えているのではないだろうか。
だから私は、祖父が何を話したのかは思い出せない。
けれど、野焼きの熱や、山を吹き抜ける風の匂いは思い出せる。
蕎麦粉に湯を加えながら練る感触や、牛が干し草を噛む静かな音も思い出せる。
言葉は消えても、体験は体のどこかに残り続ける。
そんな気がしてならない。
文章を書き始めるまでは、自分の記憶はほとんど残っていないと思っていた。
ところが、一つの記事を書くたびに、その奥から別の記憶が顔を出す。
まるで一本の糸を引くと、その先につながっていた糸までゆっくりと動き出すように。
思い出そうとしても思い出せなかった景色が、文章を書いている途中で自然と戻ってくる。
私は記事を書いているつもりだった。
しかし、本当は自分の記憶を掘り起こしていたのかもしれない。
そして、もう一つ気づいたことがある。
私が思い出しているのは、祖父そのものではない。
祖父の隣で山を歩き、牛を眺め、蕎麦を練っていた、幼い頃の自分である。
祖父は何も語らなかった。
それでも、その背中は多くのことを教えてくれていたのだと思う。
人は言葉だけで人を覚えているのではない。
一緒に過ごした時間や、同じ景色を見た記憶によって、人は誰かを心に残しているのではないだろうか。
だから今も、記事を書いていると、あの山の景色が少しずつ戻ってくる。
記憶は、探しに行くものではない。
静かに言葉を重ねていると、向こうから歩いてきてくれるものなのかもしれない。
次の記事
記憶は、自分の意思だけで思い出せるものではないようです。
一枚の写真、一つの言葉、食べ物の香り、あるいは何気なく書き始めた文章。
そんな小さなきっかけが、忘れていたはずの景色を静かに連れてきてくれます。
次に書くのは、私の記憶の扉を開いてくれた「もう一つの風景」。
あの日は当たり前だったのに、今では二度と戻ることのできない、故郷の時間についてです。


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