『鬼平犯科帳』が何十年経っても色褪せない理由──私が物語より先に「人」を見てしまうわけ

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若い頃と、今とでは見ているものが違う

最近、時代劇専門チャンネルで『鬼平犯科帳』を流し見することが増えた。

「流し見」と言いながら、気づけば手が止まり、いつの間にか画面に引き込まれている。

不思議なのは、若い頃と今とでは、見ているものがまるで違うことだ。

昔は物語を追っていた。

盗賊との駆け引き。

捕物の緊張感。

長谷川平蔵の豪快さ。

そんな分かりやすい面白さに惹かれていた。

ところが今は違う。

物語より先に目が向くものがある。


光が、人を語っている

最初に目を奪われるのは、光である。

朝の柔らかな陽射し。

障子越しに差し込む淡い光。

夕暮れの長い影。

行灯だけが照らす静かな夜。

派手な演出はほとんどない。

それでも人物が立っているだけで、その場の空気が伝わってくる。

現代の映像は細部まで鮮明に映し出す。

しかし『鬼平犯科帳』には、あえて見せすぎない美しさがある。

光と影が、人の心まで映しているように感じる。


着物は衣装ではなく、その人の人生だった

次に目が向くのは着物である。

若い頃は、「渋い着物だな」程度にしか思わなかった。

今は違う。

藍色。

墨色。

茶色。

わずかな差し色。

羽織の裏地。

帯の締め方。

どれも派手ではない。

それでも、その人がどんな暮らしをしてきたのかが伝わってくる。

豪商には豪商の着こなしがある。

火盗改方には火盗改方の装いがある。

町人には町人の粋がある。

着物は、その人の人生そのものだった。

だから、何十年経っても古びないのだろう。


立ち姿は嘘をつかない

今の私は、台詞よりも立ち姿を見てしまう。

歩き方。

座り方。

酒を飲む仕草。

手拭いの扱い。

刀を置く所作。

それぞれが自然で、無理がない。

格好つけようとしているのではない。

その人物として生きているから、美しく見えるのである。

ふと思う。

人も同じなのかもしれない。

若い頃は髪型や服装ばかり気にしていた。

しかし歳を重ねると、その人がどんな時間を過ごしてきたのかが、立ち姿に表れるようになる。


色褪せない理由は、人間を描いているから

『鬼平犯科帳』には悪人がいる。

善人もいる。

だが、その境界は単純ではない。

盗賊にも事情がある。

役人にも迷いがある。

平蔵自身も、決して完全無欠ではない。

だからこそ、人間らしい。

時代が変わっても、人は悩み、迷い、誰かを守ろうとする。

その姿は、江戸でも令和でも変わらない。

『鬼平犯科帳』が色褪せないのは、時代劇だからではない。

人間を描き続けているからなのだと思う。


私が憧れるもの

若い頃は、強い人に憧れていた。

今は少し違う。

歳を重ねた人の静けさ。

派手ではない格好良さ。

暮らしの中から滲み出る品の良さ。

そういうものに目が向くようになった。

だから最近は、髪型を考えるときも、服を選ぶときも、『鬼平犯科帳』の人物たちが頭をよぎる。

若く見せたいとは思わない。

ただ、自分の暮らしに似合う姿でありたいと思う。


おわりに──歳を重ねたから見えてきたもの

昔の私は、『鬼平犯科帳』を娯楽として見ていた。

今は少し違う。

そこに映る人々の暮らしや、積み重ねてきた時間を見ている。

年齢を重ねるということは、失うことばかりではない。

若い頃には見えなかった美しさに気づけるようになることでもある。

だから今日も、テレビから流れる『鬼平犯科帳』を横目に見ながら思う。

「人は歳を重ねて初めて、本当に憧れるものが見えてくるのかもしれない。」


『鬼平犯科帳』が色褪せない理由は、派手な殺陣や勧善懲悪ではなく、その時代に生きた人々の暮らしや息遣いまで丁寧に描いているからなのだと思います。

そして、その世界を見ているうちに、ふと気になることがあります。

江戸の人々は、どんな美意識を持ち、何に粋を感じ、どんな日常を送っていたのでしょうか。

次は、そんな「江戸の暮らしと美意識」に目を向けながら、時代を超えて受け継がれる魅力について綴ってみたいと思います。

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