春らしい気候になって来た。
石手川公園の桜も、ちらほらと開花している木が見える。昼間の気温はすでに高く、春先というよりは、どこか初夏の気配すら混じっている。季節は余韻を残すことなく、次へと進もうとしているようだ。
すでに夜桜用の提灯型の電球が張られ、いつでも宴会が出来る環境が整っていた。桜を見るというよりは、桜にかこつけて酒を飲むための装置のようにも見える。もっとも、それがこの国の花見の完成形なのだろう。
外では提灯が吊られ、誰でも歓迎される“開かれた春”が用意されている。
その一方で、我が家の春は、窓一枚で様相が変わる。
この時期になると、花粉があちこちに漂う。同居人は過度の花粉症で、窓を開けるなど言語道断だ。「私を殺す気か!」と怒る姿は、想像に難くない。春は祝祭ではなく、生存を脅かすものになる。
だからこそ、この小さな上げ下げ式の窓は、鬼のいぬ間にだけ開かれる。
気まぐれに二階の窓を開け、網戸越しに季節の変わり目を猫たちに提示してみる。すると、物珍しさに惹かれたのか、小さな窓の前にはすぐにギャラリーが集まる。
彼らはただ風を受け取り、匂いを嗅ぎ、外の気配を観測しているだけだ。桜も花粉も関係ない。ただ“変化”だけを、そのまま受け取っている。
外では酒が進み、内では窓の開閉で戦いが起きる。同じ春の空気が、これほど違う顔を持つのは妙なものだ。
桜の寿命は短い。やがてすぐに散り、季節はまた次へと押し流されるだろう。近頃はその移ろいすらも短くなり、春や秋のような中間の時間は削られているように感じる。残るのは、暑いか寒いか、そのどちらかばかりだ。
だからせめて、このわずかな余韻だけは逃さずにいたい。
提灯の外で騒ぐこともなく、窓の内側で怒号を浴びることもなく、その狭間で、猫たちと同じようにただ季節を受け取る。
春は来るものではなく、時に押し寄せるものだ。
そしてその姿は、人によっては鬼に見える。
もっとも、彼らが本当に欲しているものは、季節の気配などではないのかもしれない。
二階の引き出しにしまってある、猫用のビスケット。その在処を知っているからこそ、窓の前に集まっている可能性もある。
桜も風も、すべてはその前座に過ぎないのだとしたら。
人間が花を口実に酒を飲むように、猫たちもまた、季節を口実に腹を満たそうとしているのかもしれない。
そう考えると、この光景は案外よく似ている。
結局のところ、花より団子ということだろう。


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