― 考える癖は、子どもの頃の小さな疑問から始まった ―
子どもの頃、図書館で借りたインドに関する本を読んでいたときのことです。
その本には、「インドの偉大な発明はゼロ(0)である」と書かれていました。
当時の私は、その意味がまったく理解できませんでした。
飛行機や自動車のように形あるものなら「発明」と聞いて納得できます。しかし、何もないことを表す「ゼロ」が、なぜ人類の偉大な発明なのだろう。
その疑問だけが心に残り、答えは見つからないまま大人になりました。
しかし、不思議なことに、その「答えの出ない疑問」こそが、私に考える癖を与えてくれたように思います。
年齢を重ねるにつれ、私は「ゼロ」を単なる空白とは考えなくなりました。
何も決めつけないこと。
何も急いで結論を出さないこと。
余計なものを一度手放し、静かに物事を眺めること。
そんな「余白」の時間があるからこそ、人は今まで見えなかったものに気づけるのではないか――そんなふうに思うようになったのです。
もちろん、これは数学の話ではありません。
私自身が長い年月をかけて抱き続けてきた、一つの思索です。
思い返してみると、私は昔から「答え」よりも「なぜ」を追いかけてきました。
郷土料理を調べれば、味だけではなく、その土地の暮らしを知りたくなる。
昔の風習に触れれば、人々が何を願い、何を恐れていたのかを想像してしまう。
映画を観れば、物語よりも、その時代に生きた人々の価値観へと興味が向かう。
一つの疑問が、新しい疑問を連れてくる。
そんな寄り道ばかりを繰り返してきました。
最近では、家の庭先で猫たちの群れを眺めながら、「猫社会とは何だろう」と観察する時間が増えました。
縄張りを守る者。
距離を保ちながら共存する者。
気まぐれに寄り添い、また何事もなかったように離れていく者。
そこには、人間社会とは違うようで、どこか似ている秩序があるようにも見えます。
結局、子どもの頃から私は何も変わっていないのでしょう。
「ゼロ」が気になれば考え、「猫」が気になれば眺める。
答えを急ぐのではなく、考え続けること自体を楽しんでいるのだと思います。
だから今でも、「ゼロとは何か」という問いに、明確な答えはありません。
けれど、あの日に抱いた小さな疑問は、今も私の中で静かに生き続けています。
そして、今日もまた一つ、新しい「なぜ」が私の前に現れます。
その答えを探して歩くことが、私にとっては何より楽しい旅なのかもしれません。
さて、あなたの心の中にも、子どもの頃から答えが見つからないまま残っている「なぜ」が、一つくらいあるのではないでしょうか。
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現在、私は屋内で九匹の猫たちと共同生活を送っています。
毎日顔を合わせていると、それぞれに性格があり、縄張りがあり、仲の良い組み合わせもあれば、絶妙な距離感を保つ者同士もいます。
一見すると気ままに暮らしているようですが、その行動を静かに眺めていると、そこには猫なりの秩序や暗黙のルールが存在しているようにも思えてきます。
子どもの頃は「ゼロとは何だろう」と考えていました。
今は九匹の猫を眺めながら、「猫社会とは何だろう」と考えています。
どうやら私は、昔から答えよりも、「なぜ」を観察するほうが好きな人間のようです。



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