木村庄之助に学ぶ「遊びの美学」——スカジャン風作務衣を作ってみた

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テレビをほとんど見ない生活をしていると、世間の関心から少しだけ外れたところに、妙に気になる存在が現れることがある。
大相撲もその一つだ。
力士の四股や勝敗ではなく、なぜか目に残るのは行司の所作や装い。中でも最高位の行司である木村庄之助という存在は、土俵上では徹底された様式美を体現しているにも関わらず、一歩外に出ると妙な“遊び”を感じさせる。
同居人は、どうやらそこに目をつけていたらしい。
同じ名前、違う美意識
木村庄之助という名前は一人の人物を指すものではなく、代々受け継がれる称号だ。
つまり、その中身は時代ごとに入れ替わる。
興味深いのは、土俵上ではほぼ同じ装束を纏っているにも関わらず、私服になると驚くほど個性が滲み出る点だ。
小柄な体格にズートスーツのようなシルエットを合わせる者もいれば、ロング丈の和服にサルエルパンツを組み合わせ、どこか仙人めいた脱力感を漂わせる者もいる。
統一された名前の裏で、ここまで趣味が分かれるのかと思うと、少し可笑しい。
だが同時に、それは妙に納得できる話でもある。
制度に縛られた人間ほど、外で遊ぶ
行司という職業は、極めて強い規律の中にある。
装束、所作、言葉遣い——すべてが形式に則り、逸脱は許されない。
だが、人間は完全な型には収まらない。
むしろ、強く縛られるほど、どこかでバランスを取ろうとする。
その“歪み”が現れるのが、私服なのではないかと思う。
土俵の上では江戸時代の時間を生き、土俵の外では現代を生きる。
その二重構造が、行司の装いに独特の奥行きを与えている。
スカジャンと作務衣のあいだ
そんな観察から、ひとつの服を作ってみることにした。
モチーフは、行司の持つ「格式」と「遊び」の同居。
形として選んだのは作務衣。
そこに、スカジャンの要素を重ねる。
スカジャンは戦後の混交文化の象徴であり、ある種の反骨や自由の匂いを持っている。一方で作務衣は、修行や日常に根ざした質実な衣服だ。
本来なら交わるはずのない二つを、あえて重ねる。
すると不思議なことに、行司という存在を通すことで、その違和感は少しだけ意味を持ち始める。
伝統は、着崩されることで残る
完成したそれは、和風のスカジャンのようでもあり、少し砕けた作務衣のようでもある。
どちらにも寄りきらない中途半端な立ち位置。
だが、その曖昧さこそが今回の核だったのかもしれない。
伝統は、守られることで残ると思われがちだが、実際には少しずつ崩されながら生き延びていくものでもある。
土俵の上では誰もが同じ型に収まる。
だからこそ、土俵を降りた瞬間に、その人の歪みが美しく見える。
その歪みに触れたくて、布を切り、形にしてみた。

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