前日の宴とは打って変わり、その翌日は全員で盛り上がるという空気はすっかり姿を消していました。猫たちは思い思いの距離感を保ち、それぞれの時間に戻っていきます。
猫社会には、弱い立場の者に対して同情や施しを与えないという、冷徹とも思える掟があるように見えます。少なくとも、人間の価値観で測ればそう映る場面は少なくありません。
コリンと一(はじめ)は、どちらも目立たず控えめな性格です。餌は均等に分配しているものの、彼らは率先して食べようとはしません。周囲の動きを窺い、場の空気が落ち着くまで待つ。その姿は、群れの中での自分の位置をよく理解しているかのようでもあります。
人間はどこまで踏み込んでよいのか
猫たちの生活環境を管理しているのは人間です。寝床を整え、餌を用意し、危険を遠ざける。その一方で、どこまでが人間の介入として許される範囲なのかは、常に判断が難しい問題でもあります。
人間が善意で行った行動が、猫社会の序列から見れば「余計なこと」になる場合もあります。特定の個体だけを過度に守れば、群れの秩序を乱す結果にもなりかねません。
だからといって、完全に手を引くことが正しいとも思えません。人間の管理下にある以上、無関与という選択肢は存在しないのです。
弱者という立場
この構造は、人間社会にもよく似ています。
会社や学校といった集団の中でも、コリンや一のような立場の者は「劣等生」「要領が悪い人」として見捨てられがちです。恐れを前面に出し、挙動不審に振る舞う者に対して、社会は驚くほど冷淡です。
猫社会でも人間社会でも、「競争に打ち勝つ術を身につけられるかどうか」が、生き残りの分かれ目になる──そう感じる場面は少なくありません。
二つの立場
同居人は、弱者を積極的に保護する立場にいます。猫はすべて平等であり、差を設けるべきではない、という考え方です。
一方で私は、最低限に留める立場を取っています。環境は整えるが、過度には介入しない。猫たち自身が関係性を築き、生活圏を広げていく余地を残したいと考えています。
この考え方は、正直なところ同居人の価値観とは相容れない部分もあります。どちらが正しいという話ではなく、ただ「馴染めない」という感覚が残るのです。
見えない援助という選択
もっとも、私は自分の立場を綺麗事だけで語るつもりはありません。最低限と言いながらも、個別に、見えないところで援助をすることはあります。
人間の生活環境に臆することなく踏み込み、自らの行動範囲を広げていく。その経験が、結果として生き残るための術になることもあるからです。
あからさまに手を差し伸べるのではなく、選択肢だけを置いておく。踏み出すかどうかは、彼ら自身に委ねる。
これは境界線なのか
では、こうした姿勢は「境界線」なのでしょうか。
人間が管理者として踏み込む領域と、猫たちが自ら築く秩序。そのあいだに引かれる、目には見えない線。
おそらくそれは、明確に引けるものではありません。状況によって揺れ動き、その都度問い直されるものなのでしょう。
ただ一つ言えるのは、境界線を意識し続けること自体が、人間側に求められる責任なのだと思います。踏み込みすぎないことも、見捨てないことも、その両方を天秤にかけながら。
猫社会と人間社会。その重なり合う場所で、今日もまた判断は保留されたままです。



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