九尾とお稲荷の二面性

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春の陽気が少しずつ町を満たす頃、今年も五穀豊穣を願ってお稲荷さんに手を合わせた。
良い米が実りますように――そんな思いを胸に、私は九尾とともにこたつで過ごす。
春の祭りは、狐を豊穣の象徴として掲げる。
境内では熊手が振られ、人々は福を求めて列を作る。
だが、狐はそれだけではない。
荼枳尼天(だきにてん)と呼ばれる狐の神は、死の兆しを察知し、骸を喰らうことで浄化をもたらす存在とされる。
生を実らせる神でありながら、死とも結びついている。
鬼灯の冷徹(作:江口夏実)では、その性質を活かし、狐は葬儀屋のような役割を担っていた。
死の気配は恐怖ではなく、「頃合い」を見極める理の一部として描かれている。
豊穣と死。
繁栄と終焉。
神はいつも、どこか二面性を帯びている。
一方で、我が家の九尾は、こたつの周囲でただ日々を生きている。
外で伝説や祭りが騒がしくとも、尾は静かに揺れ、呼吸し、感情を映す。
怒りは膨らみ、安堵はゆるく波打つ。
死神のように惑わすこともなければ、縁起物のように意味を押し付けることもない。
九尾はただ、今ここにいる。
生と死。
神秘と日常。
それらは線で区切られるものではなく、
温かな空気の中で、尾の揺れのように、ゆるやかに混ざり合う。
祭りの神秘も、伝説も、現実も。
九つの尾を通して眺めれば、
すべては少し穏やかになる。
人が死を迎えることも、
日常の小さな喜びも。
尾はただ、静かに揺れている。

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