テレビや映像の世界では、いつの時代にも象徴的な存在が生まれる。
それは子役であったり、番組の顔になるペットであったりする。
1970〜80年代の日本のテレビドラマも例外ではなく、高視聴率番組の中で、子役たちは大人の会社員を上回る報酬を得ることもあった。
その環境で育った子供が、一般社会とは異なる金銭感覚や社会感覚を身につけてしまうのは、不思議なことではない。
問題は、番組が終わり、役割を失ったあとに始まる。
役を失ったあとに残るもの
過去の評価と比較されながら、突然「普通の生活」に戻される。
そこで残るのは、現実との落差だった、という例も少なくない。
もっとも、すべての元子役が同じ道を辿るわけではない。
芸能の世界を離れ、学業や専門職に進んだ人、事業を立ち上げた人もいる。
この分岐を生んだのは、才能の有無ではない。
自分の人生を、自分で引き受け直せたかどうかだったように思える。
映像の外に置き去りにされた命
この構造は、人間に限った話ではない。
ペットモデルにも、よく似た現象が見られる。
番組や映像で主役級の犬や猫が登場すると、特定の犬種や猫種に人気が集中する。
それに呼応するように供給は増え、やがて飼育の現実とのズレが表面化する。
可愛さだけを切り取られた映像と、実際の生活との間には大きな隔たりがある。
成長や老化、病気、生活リズムの違いに対応できず、
結果として飼えなくなり、放棄や遺棄に至るケースも後を絶たない。
現在でも、動物番組やSNSで注目された犬や猫は、
ペットショップで「人気商品」として扱われている。
決めていたのは誰だったのか
ここで問われるべきなのは、当事者の善悪ではない。
子役であれば親や事務所、ペットであれば飼い主や業者といった、
代理で意思決定を行う存在が、人生や命の初期設定を握っている点にある。
可愛さは価値になる。
だがそれは、期限付きで消費される価値でもある。
成長や変化は、消費の論理の中では、劣化として扱われやすい。
その後のほうが、ずっと長い
流行は短く、人生と命は長い。
この単純な事実が軽視される限り、
同じ構造は形を変えて繰り返される。
拍手が止んだあと、
映像に映らなくなったあと、
そこから先の時間のほうが、ずっと長い。
光の裏で量産される影
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