
「法が届かぬ瞬間に、命は誰のものでもなくなる──。」
ニュースの片隅に、時折「警察が発砲」「被疑者死亡」という見出しを目にすることがあります。 日本では滅多に起きないこの種の事件。法の執行が届く前に“現場で終わる”ケースは、いわば「法と生の境界線」が最も鮮明に浮かび上がる瞬間ともいえます。
私が印象に残っているのは、1979年に起きた「三菱銀行籠城事件」。 梅川照美(うめかわ てるよし)容疑者が銀行を占拠し、人質をとったまま警察に包囲され、最終的には射殺された事件です。 映画『Tattoo<刺青>あり』(監督:高橋伴明、主演:宇崎竜童)は、この事件をモチーフにした作品として知られています。

海外では“射殺”が法の一部
海外、特にアメリカでは、武装した被疑者に対して警察が即座に発砲することは珍しくありません。 「市民の安全を最優先する」という名目のもと、現場判断での“即応射殺”が容認されているのです。 その象徴的な映画が、アル・パチーノ主演の『狼たちの午後(Dog Day Afternoon)』。 銀行強盗が警察に包囲され、混乱の末に射殺されるという結末は、まさに「法の届かない現場のリアル」を描いています。
一方、日本では発砲=最終手段。警察官が銃を抜くこと自体、極めて稀です。 この“銃を抜かない文化”は、世界的に見ても特異なほど慎重で、倫理的でもあります。

銃を持つ者 vs 素手で挑む者 ― 浅間山荘事件の対比
では、反対に被疑者が銃を持ち、警察官が丸腰で挑んだ事件はどうでしょう。 1972年の「浅間山荘事件」は、その象徴です。 連合赤軍のメンバーが立てこもり、銃撃戦が10時間以上続くなか、警察は安易に発砲せず、盾と放水で突入しました。 死傷者を出しながらも、最後まで「生け捕り」を目指したその姿勢は、まさに日本的な“法の哲学”そのものでした。
現場にある「もうひとつの法」
こうして見比べると、日本の警察文化は「命を奪わない」ことを最優先する傾向があります。 しかし、それは同時に、現場の警察官が自らの命を賭けるという意味でもあります。 銃を抜くことが「最終判断」である以上、彼らに課される心理的負担は計り知れません。
一方、海外の現場では「ためらいは死を招く」とされ、迅速な射撃判断が求められます。 つまり、どちらの国にも、“法の外側”で働く現場独自の倫理と覚悟があるのです。

まとめ ― 法が届かぬ瞬間に、人間が試される
三菱銀行籠城事件も、浅間山荘事件も、どちらも「法の正義」と「現場の現実」がぶつかり合った事件でした。 法の教科書には載らない“もうひとつの正義”が、現場には存在します。
もし日本がアメリカのように“射殺許可”を緩めていたら、あのときの結末は違っていたかもしれません。 けれども――撃たないことを選ぶ日本の警察文化には、単なるルール以上の、人間としての矜持が刻まれているのです。 その矜持は、現場で判断を下す警察官一人ひとりの胸に宿り、私たちに「法と命の意味」を静かに問いかけます。
次回は、「現場で命を奪わなかった選択」がもたらす社会的影響について考えます。 → 次の記事へ
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